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『デッドマン・ウォーキング』を観てみたよ!

死刑をテーマにした作品。原作となった本は著者が実際に死刑囚と接した内容が書かれているもので、それだけに映画のほうもなかなかにリアルな作品になってます。といっても賛否両論が別れるテーマなだけに万人共通の感想ってのはないだろうね。まぁそんなのどの映画も同じか。

主人公の尼僧ヘレンが死刑囚のマシューをなんとか死刑から救おうとする物語。というのも、マシューが関わったとされる殺人事件の裁判で、共犯者は無期懲役なのに対してマシューは死刑であるということを疑問に思ったからだ。

いろいろと試してみるも全て残念な結果になる。さらには被害者の家族に非難され、マシューはマシューで人種差別発言したり、自身の犯行否認をしたりで、ヘレンはどうしたらいいのやらわからなくなるんです。

ついには死刑執行の日。マシューは家族との別れで涙を流し、自分の犯行を認め、被害者家族に謝罪の言葉を贈る。死刑とは何なのか、人の死とは何なのかを考えさせられる作品でした。

さて、ここで無知野郎な僕が死刑についての持論を語るのもちょっとアレですよね。

この作品では、死刑に加えてキリスト教との問題も描かれています。それについて一言。手元に資料がないので正確なことが書けないのが残念ですが。

近年のアメリカでは、キリスト教徒における死刑廃止論と死刑賛成論の対立が表面化してきているといわれます。そして最近、死刑に反対する人々の数が死刑に賛成する人々の数を上回りました。これはキリスト教の宗派とも関係していることで・・・と今はあんまり関係ないので省きますね。

で、問題はなぜ賛成と反対という意見が同じキリスト教内で起きているかということです。注目すべきは聖書。聖書では死刑についてどう書かれているのかというと、これがまた曖昧なんですね。捉え方によっては聖書は死刑に賛成しているといえるし、反対しているともいえる。だからこそ、こういった議論が起こってしまうんです。

死刑問題に限らず、近親相姦だとか中絶とかについても曖昧な記述をしている聖書。なかなか難しいものを先人たちは残してくれたもんですね。まぁ僕はキリスト教徒ではないので関係ないといえば関係ないのですが、そう簡単に「僕には関係ない!」と言えるような社会ではなくなってしまいましたし、イスラム教や仏教などの他宗派も考えるべきことだと思います。

難しい問題ではあるけど、逃げてはならないことだと改めて考えさせられました。目を背けることって簡単だし楽なことではあるけども、「逃げちゃダメだ」ってことですよね。