『バベル』を観てみたよ!

旧作。菊地凛子がアカデミー助演女優賞にノミネートされた作品としても話題になった作品です。

バベルの塔。それが、世界にバラバラの言語を与える結果となった。と、旧約聖書には描かれています。この作品は、そうした「言葉」や「心」がすれ違う人間社会を訴えているものです。モロッコ、アメリカ・メキシコ、東京が舞台となっています。

映画の中盤のシーンにて、アメリカ人観光客を乗せたバスがモロッコのとある小さな村に緊急事態で立ち寄ることになりました。おそらく、そのような豪華なバスがその小さな村に来たことなんてほとんどなかったことでしょうから、子供たちはそのバスに駆け寄り興奮します。一方、大人たちは冷静に、汚いものを見るかのような目で見ます。アメリカ人観光客も同様に、不安そうな目で村人たちをバスの中から見ます。

コミュニティーにおける「ウチ」と「ソト」というのは、こうした「言語」や「心」の違いというものも大きく影響しているように思えます。それは国民国家も同様。違いを絶対に受け入れようとしない排外主義、自文化中心主義は疑心暗鬼を生むだけではないのか。

通訳者とアメリカ人観光客が仲良くなれたのは、言語という壁を打ち砕いているから。喋れることのできる人が聾者を理解出来ないのは、言語という壁が立ち塞がっているから。

言語が1つだけであれば、人々は理解し合えるのか。そんなことはありません。結局、お互いを完全に理解し合うことは不可能であって、完全理解を求めることは間違っています。でも、人は自分を理解してもらいたいし、相手のことを理解したいと望む。そこに齟齬が発生して、自分の殻に閉じこもることを選択する人も存在する、と。