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英語は必要不可欠なツールではない

ハーグ条約に関連した国際結婚問題や、大企業による英語の社内公用語化、英語の小学校教育など、数年前とは非常に異なる社会英語化の波が押し寄せています。はてブには多くの英語勉強関連の記事がホッテントリ入りし、一般的な日本人でさえ、どことなく英語を習得しなければならないという観念に取りつかれているように感じます。

ですが、本当に英語は必要なものか?

例えば身の回りにいる人を思い浮かべ、その中で日常的に英語を利用せざるを得ない環境下にいる人はどれくらいいるでしょうか。僕はというとほぼ0です。両親、親戚、いくらかの友人、彼ら彼女らにとって英語は全く必要のないものとなっています。日本語だけで十分に生活していけるわけです。

もちろん、英語を習得していれば多くの機会に恵まれることは事実です。就職、海外旅行、コミュニケーションなど、英語は事実上の世界公用語となっているわけですし、英語を使用しなくてはならない場面に突き当たることも1度や2度あります。英語ができなくても特に大きな問題にはなりませんが、英語ができれば損はしないということです。それは知識を得る、学習、勉強すること全般に言えることです。ですが、今はそれをどうこう言うつもりはないので、英語が必要か否かを考えたいと思います。

そもそもの話、義務教育課程でなぜ英語を学ばなければならないのか。他言語は学ぶことはできないのか。学習指導要領を見てみると、原則的に英語を教育しなければならない、ということになっています*1。なので、他言語の中国語やハングル語やフランス語などを学んでもいいわけです。にも関わらず、学生の意に関係なく、日本では中学高校で当然のように英語を学ぶことになります。

こういったことはジョゼフ・ナイ教授の提唱するソフト・パワーに関連するところだと思います。ソフト・パワーとは、国家の有する軍事力や経済力といったハード・パワーと対になる意味で、文化や政治的価値観から国際社会における地位を獲得するといったものです。要するに、英語という言語文化から世界における立場を維持しようとしているのではないかということです。現状、アメリカは世界一の超大国であり、21世紀に入ってからの大規模な戦争の多くはアメリカ主導のものとなっています。しかし、近年ではサブプライムローンに端を発した世界金融危機からアメリカの信用は徐々に失いつつあります。国内でもイラク戦争に対する反戦運動や、ニューヨークデモ活動など、一部の敬虔なクリスチャンらを除けば国家に対する意識は大きくなっています*2。だからこそ、アメリカはその国際的地位を維持するためにもハード・パワーだけでなく、ソフト・パワーを重視していかなければならないわけです。

しかし、これを別の立場から見てみると文化相対主義を打ち砕くような、一方的な文化侵略であると言えなくもありません。戦時下での植民地における言語教育などがよりソフトになった形であるのかもしれません。言語文化はその国家、または地域に住む人々のアイデンティティを形作るものになっているのは事実であり、特に日本では「日本語が母語=日本人」という意識が非常に大きいわけです。日本ではアイヌ民族の言語復興運動や、国外でもニュージーランドのマオリ族のマオリ語教育、アイルランドのゲール語教育など、世界的に見ても少数言語文化は多く存在しており、そうした文化を保持していくための活動が日々行われています。先述したように、言語はアイデンティティに深く関係してくるからです。言語文化の崩壊は国民国家の崩壊へと繋がっていく可能性があります。

これはあくまでも極論であり、冗談の一部です。第三のグローバリゼーション*3が進行する今、英語圏以外の国や地域に所属する人々との交流が増えてきています。そうした場合に用いられる言語は概して英語であり、英語がなければそういった人々とのコミュニケーションが難しいのが現状です。が、そのコミュニケーションが必要となってくる場合は必ずしも日本国民全員に当てはまるわけではなく、むしろその割合は1割を切るレベルだと思われます。

英語ができて損はしないけど、だからといって大きな声で英語の必要性を叫ぶのもお門違いなわけです。

*1:[http://www.mext.go.jp/b_menu/shuppan/sonota/990301c/990301i.htm:title=中学校学習指導要領 第9節 外国語:文部科学省]

*2:参考:石生義人著『アメリカ人と愛国心:白人キリスト教徒の愛国心形成に関する社会学的研究』

*3:僕の個人的見解ですが、最初のグローバリゼーションは大航海時代、次は第一次世界大戦と第二次世界大戦、そして現在の情報社会が第三のグローバリゼーションです。