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勉強するには意思だけでは足りないものがある

99歳大学生、通学に2時間かけ国際政治史の勉強に励む「世の中にはいろんな知らないことがあるもんな」-産経新聞

この記事にある99歳の方は、家庭の経済的事情から子どもの頃に教育を受ける機会を得ることができませんでした。教育というものは誰にも等しく与えられているものではありません。経済的、社会的環境下から教育を受けることができない人々は少なくありません。大学全入時代と言えど、それは今も変わりません。

僕の父の話です。父も同じように経済的に決して裕福とは言えない家庭だったために、大学への推薦を貰えたものの断念せざるを得ませんでした。僕のような父は他にも数多くいると思います。

学ぶ、ということは子どもだけに与えられているものではありません。社会人になっても仕事をしていく上で学ばなければならないことは多いのです。それは今の大人たちが十分に理解していることだと思われますし、学ぶことはつまり生きていくことである、と考えている人も多いでしょう。しかし、仕事の中で学ぶことはミクロ的なものでしかありません。

様々な多角的な視野から物事を捉えるためには、よりマクロな学び方を必要とします。あらゆる物事をインプットして、それらを複合的にアウトプットすることが求められるわけです。数学は数学、歴史は歴史、というような形ではなく、例えば歴史学について言えば通史を学ぶだけではそれを応用して物事の歴史的意義を考えることが不可能なわけでして、経済学・政治学・人類学などあらゆる学問が必須となってくるわけです。

そういったことを学ぶ機会、場所といえばやはり大学なのですが、現実問題として老若男女問わず受け入れてくれるという場でないのは事実です。より地域に、社会に開かれた大学運営が市民教育をおこなっていく上でも重要ではないでしょうか。例えば、企業と大学の連携をすることであらゆる角度からの社員教育をおこなっていくことも可能でしょう。もっと身近なものでは家族、例えば育児であるとか、そもそも家族というものがどういったものであるのかを考えていくためにはただ単にテレビを観たり、家事などをする経験だけでは不十分です。

もちろん、そういった連携には問題も多々あります。そのような時間を割くだけの時間が大学教授にあるわけではありませんし、企業なども同じです。さらにはカネの流れも生まれてくるわけで、新たな利権などが出てくる危惧もあります。それでも、やはり大学側からの社会貢献としての動きが求められるのではないでしょうか。

先日の部活顧問による体罰問題、責任の押し付け合いが見られて非常に滑稽です。なぜ学校は学校の中で全てを管理しなければならないのか。なぜ家庭は家庭の中で全てを管理しなければならないのか。僕が子どもの頃、下校中は地域の人々は黄色い旗を持って道端に立っておられました。そのような光景、今では地元でも見られなくなってしまいました。皆が一体となって協力し合える社会になりますように。