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山口県出身者だけど例の殺害事件で嫌な気分になった

時事

なんだか自分の言いたいことがまとまらないので整理しておく。

僕は山口県の出身、18年間をそこで過ごしました。東京の大学に進学し、その後は栃木や山梨に引っ越すなど転々していましたが、来年度から山口に戻って仕事をすることになりました。これがバックグラウンドです。

今回の事件に対し、Twitterのとある発言を起点に情報が錯綜し始め、それに対してブコメやネット住民から「これだから田舎は」や「恐ろしいところだな、山口は」などと言われているわけです。

僕自身、郷土愛なんてそんなに持っていないと思っていますし、昨今の某総理など政治に関しても地元に良いイメージなんてなかったのです。でも再び山口に帰るということになってからか、マイナスイメージを植え付け、さらには山口県民を否定しようという空気にどうしても何か言いたくなったわけです。ブコメで他ユーザーからidコールで指摘されたように、確かにこのように何か言いたいというそれは感情論レベルの愚痴でしかありませんし、整合性のある主張もできていないと思います。

要するに、なんか嫌だった、ただそれだけ。

以下は駄文です。



僕は予てより国民国家体制を批判し、国家アイデンティティというものをある程度排除していくことこそが理想であると考えてきました。それは今でも変わりません。

海外に出れば自己紹介で「日本から来ました」と言ってしまうし、人間というものはそのように個そのものを見るというよりもその背景を知ることが相手を知ることの前提になりがちです。これは差別問題などと照らし合わせても非常に危険であるとは思います(極端な例を挙げると、アフリカ出身だから黒人の血が流れているなど)が、現在の国際社会においては必須の事項になってしまっています。今を生きているのだからそれを受け入れなければならないというのは十分承知していますが、いつまでもこれを続けていくわけにもいかない、と。

こうした社会の中で育ってきた以上、僕たちはどうしても自分の所属に対するアイデンティティを保持しがちであるのかもしれません。例えば僕は山口県の出身なので、今回のように山口県を否定されるような動きには敏感になってしまうし、それに嫌悪してしまうわけです。それは仕方のない事なのかなと思います。僕は改めて山口県出身者という自我を残念ながら再認識する結果になりました。(書類上は来年からですが)山口県民であり、日本人である、と。そういったものは気持ち悪いものであるとして目を背けてきましたが、どうしてもそれを自認していかなければならないようです。

東日本大震災においても同様のことかもしれません。ジョーク的なものではありますが、大阪民国などと言うようなことに対しても同じ。さらにジョークの代表例ですが大都会岡山なども。第三者が好き勝手に知らない土地のことを適当なことを言って馬鹿にする、否定する。イギリスの料理は美味しくないだとか、南アフリカは劣った文化だとか、ちょっと違うかもしれませんが同じことのような気がしなくもありません。

僕はアメリカ史の研究をしています。第三者の日本人という僕が、アメリカの歴史に何か言うということも、ベクトルが違ってくると上記のようなことと同じことになるのかもしれません。つまり、知らない奴が勝手に何か言ってる、ということです。でも、僕は僕なりに精一杯論理的にアメリカ史を捉えようと努力しているつもりです。いくつもの史料を精読し、あくまでも客観的な視点から歴史を見ようとしています。もちろん所詮は修士課程の学生、大したことを言及できるわけはありませんし、一流の研究者から見ればゴミのようなものです。ただ、第三者からの視点というものは当事者には見えない何かを発見することに繋がるのかもしれません。月並みですが、それが僕が日本国籍取得者でありながらアメリカの研究をしている理由です。

話が逸れましたが、何が言いたいのかというと、所属アイデンティティというものはとても強固なものであり、それを別所属のアイデンティティを持つ人々から否定されると、多かれ少なかれ嫌な気分になってしまうということです。それは小さくなればなるほど強くなります。僕の場合であれば、宇宙、地球、日本、西日本、中国地方、山口県、市町村、家族という順に。こんなことは今までも述べられてきたことですから今更言うほどのことではありませんが。僕はその境界線が都道府県の山口県であった、ということです。郷土愛、愛というほどではないけど僕には存在していました。

戻りますが、なんか嫌だった、それだけなのです。