自己の正当化について今一度考える

自己を正当化するのが当たり前というのであれば、それなりの根拠をもって論理的に説明しなければならないのだと思う。

ただ、自分のなかでは「正当化することによって思考に偏りがでるのでは」と考えてしまうので、はっきりと正当化するのではなく、あくまでも自身を批判的に見て、そのうえで正当化するような説明をするよう心掛けている。といいつつも、それを実行するにはその事柄における正しい知識を持たなければならなく、なかなか難しいことだろうと思う。

正しい知識といっても、人それぞれによってその定義は場合によって変わるもので、何を正しいと捉えればいいのかという判断力も必要であって、それもまた難しい。

突き詰めていけばいくほど、それこそ何が正しいのかわからなくなってしまう。自己の正当化は人間の生理的現象であるといって差し支えないのかもしれない、と考えるのが一番楽なのだろうか。


とかなんとかいっても、自己を正当化してそれが批判されるのが怖いだけなんですよ。アホだな、私。批判を恐れて自分の意見をはっきりと言えないタイプの人間、まさにそれ。

そうなったのは、自分が周りから否定ばかりされている、という自身の幻想妄想からきてるわけでして。一種の病気ですよね。そうした環境で育ってきたわけでもないのに、だからこそこうした弱さが生まれてしまったのかもしれません。(否定されるようなことをしてるだけ、と言ってしまえばそれだけですが・・・てか、そうなのだろうね)

かといって、不幸自慢をしてそれを乗り越えた自分の強さをアピールする人間は大嫌いですが。それでいて、弱い私と比較して自分の強さを強調するんですよ。なんというか・・・私の身内でもないくせに、私のことをわかっているようなことを軽々しく言われたくないですよ。何様のつもりですか、と問いたい。





話は大幅に変わりますが、今まで私は努力は必ず報われるとは限らないと考えてました。努力が認められない環境下の人がいる、だから私はその人の分も努力しなければならない、と。

でも違うんですよね。努力が認められない環境下だとしても、その人は努力を怠っていないんです。環境に裏切られても、何度も裏切られようとも、努力だけは裏切らないと信じて・・・私にはそう感じました。

努力は裏切らない。