踊ることについて

多くの人達は子供の頃から、『踊り』をします。例えば幼稚園のお遊戯、例えば運動会、例えば夏祭り。ですが、その内のほとんどはただ踊らされてるだけです。そうやって踊らされる『踊り』に対して、本気で取り組む人は少ないと思います。かつては僕もそうでした。僕にとって、踊ることは自分を辱めることでした。人々が自分に注目する。才能があるわけでもない、下手くそな踊り。ただの連帯感の表現としてだけの『踊り』に意味なんてあるのだろうか、と思っていました。

演技としての『踊り』

僕は何度も踊らされてました。高校、大学と学祭実行委員会に所属すると、実行委員によるパフォーマンスとして踊らされました。その度に僕は辱められました。でも、実際に踊っているときの自分はそれを楽しんでもいました。といっても、所詮は素人の『踊り』であって、それを観ている人々は特に感動を持つわけでもないと思います。全てがそうだとは言い切れませんが。

そんな他人に観てもらうためだけの『踊り』をしてきましたが、昨年の留学中のことです。

楽しむための『踊り』

週末は必ずといっていいほど友人たちとパブやナイトクラブに行きました。夜が深まっていくと同時に盛り上がっていき、人々は酒に酔い、踊りに興じる。ダンスのダの字も知りませんが、僕も見知らぬ人と一緒に音楽に乗って踊り続けました。最初こそは少し照れくさいところもありましたが、形を気にせず、自由に踊りました。楽しかった。全てを忘れて、音楽に身体を預けて動き続ける。快感でした。そうして踊り終わった後に、僕は汗を拭きながら友人と笑い合い、そして酒を飲み合いました。

僕は、踊ることの楽しさをようやく知ることができました。

不幸な『踊り』

今、首都圏の人々は様々なものに踊らされています。一部の人は踊り狂ってもいます。しかし、それは何の幸福感も持たない悲しい『踊り』です。楽しくありません。最悪なことに、それらは周りの人々に迷惑を掛けています。僕達が子供時代に学んできた『踊り』とは、周りの人々を巻き込んででも大人数で踊っていれば楽しい、というものなのでしょうか。そんなことはありません。悲しみが悲しみを生むように、間違った踊りが間違った踊りを生みます。

紀元前から人間は踊ってきました。なぜ踊り始めたのか、理由はまだ解明されていません。僕たちはどうして踊るのでしょうか。どうして踊らされなければならないのでしょうか。

近い未来、人々が楽しむために全国で踊っていることを願います。