国家・宗教・文化の結合という危険思想

2011年の「今年の漢字」は「絆」でした。震災に始まり、台風被害や国外での災害など、日本ではほぼ毎日のように「絆」というその字を見ていたと思います。

それらの絆はあくまでも日本人としての、日本国の国民としての絆です。保守系の方々にとっては非常に喜ばしい意味で使われるこの絆。しかし、現代においてその絆が持つイメージを国家単位で求めるのはナンセンスなことです。国際化やグローバリゼーションなど、今更ドヤ顔でそれらを語るのは恥ずかしい思いをしてしまいますが、現実に起きていることなので無視することはできません。かと言って、国民国家によって社会が構成されている今、それを蔑ろにすることもできません。国民国家という概念を見ないということは現実から目を逸らしているということと同義なのです。

国民国家を語るのも語らないのもお門違い、と言いたいわけではなく、そういった単元的な意味で見ていくことが間違いであるということです。

絆は必ずしも小さなグループ内で育まれるものではありません。例えば宗教、文化など、大きな単位で語られることこそが現在求められていることです。

宗教によって生み出される絆は巨大なものです。そしてその絆には長い歴史が存在しています。しかし、その絆の強大さ故、歴史上で幾度と無く争いが繰り広げられてきて、現代においてもその勢いを止めることはできていません。国民国家以前から存在するその争いの歴史を知ることは、現代社会問題を解決していく上で重要であることは言わずもがなですが、日本社会にはいわゆるカルト宗教によって悪いイメージが徘徊しています。そのために世界で起こっている宗教問題に対する関心も低く、日本はより保守的な社会になっていっています。

文化が生み出す絆にも影響力があります。宗教が重要視されていない日本ではこの文化こそが大きな意味を持っているのです。一般的に伝統と言われる文化だけでなく、サブカルチャーなどの新たな文化は、日本人のアイデンティティを構成する要素であり、政府主導の文化外交などもおこなわれています。

ですが、文化はそれ1つだけで発信されていくことが望ましいことであり、国家が干渉することは文化の破壊へと繋がる可能性があります。歴史を見ても、文化が消滅するのは大きな権力が関わったことによるものが多いのです。宗教もまた、国家によって宗教の存在そのものを否定されることが多々あります。つまり、国家・宗教・文化はそれぞれ進むべき道は異なっており、それらを融合させてはいけないのです。

日本は万世一系の天皇制というシステムに縛られ、国家を信頼、信用しすぎるあまりに国民が自分自身で物事を考えることを放棄しているのではないかと思います。先述したように、現実問題として現代社会は国民国家が基礎なので、国家を優先していく意識を持つことは必要とされていることなのかもしれませんが、その視野からしか捉えることのできないというのは愚行以外の何物でもないのです。