学生に暴力を振るう大人たち

思えば、6歳の時に小学校の校門を通ってから僕は学生として社会の中で生きてきました。小学校、中学校、高校、大学と進み、大学院に進んで今年が2年目。つまり、問題なく修士課程を修了することができれば、来年の3月で僕の学生生活がようやく終わるわけです。

学生というものは、現代社会においてはとても弱い存在です。何かにつけては「所詮は学生」として非難され、僕たち学生は非常に狭いところで生きていかなければならないのです。日本では、社会人として企業などに勤め、結婚して子どもを育て、家庭を養っていかなければならない、という風潮が未だに強く、それが学生の地位の低さに直結しているのだと思います。社会人はいわば貴族や武士のようなもの。学生は寺子屋で学ぶ庶民、いやそれ以下、野原で遊ぶ子どもたちのようなものかもしれません。

ただ、1つ言えることは誰もが学生時代を過ごして、もちろんそうでない方もいらっしゃるとは思いますがここでは一般論的な意味で、社会人になっていきます。僕にもある経験ですが、概して人は過去の自分や当時の社会を美化し過ぎるあまりに、自分より年下の存在を蔑ろにしやすいものです。いわゆる「最近の若者は」というものと似ていると思います。これはもう語り尽くされているはずの議論なのに、なぜかこの論調が消えることはなく現代でも生き続けています。まさに負の亡霊。

人は過去から何も学ぼうとしない。ただの知識として、教養としての歴史なんて必要ない。僕たちがしなければならないことは、過去の歴史から今と未来を考えていくことなのです。にもかかわらず、昨今の東アジア情勢に伴う反日・反韓・反中を叫ぶ各国の保守層は、歴史を政治ゲームの材料にあてがえて、暴論を吐き出し、何一つ可能性を見出すことができない無駄な議論を日々繰り返しています。全くもって嘆かわしい。国民国家体制の崩壊は刻一刻を近づきつつあるのは事実であるのに、誰もが幻想に囚われた国家という強大な宗教構造に飲み込まれていってしまっています。

閑話休題。

僕は「他者への非難」はあってしかるべきものだと思います。だから、社会人による学生批判を辞めろというつもりは毛頭ありません。互いに互いを批判し合うのは非常に刺激的でより活発的な意見交換の場になり得るからです。ただ、相手の価値観を認めようとしない、とても狭い視野でしか物事を判断できないような人がそうした場にいると話は別です。多様性を許容できる、認めることができる寛大さを持った存在、それが社会人であり大人であると思います。しかし実際は、大人は自分たちの持つ社会的身分を盾に、弱き者たちを力でねじ伏せようと必死に足掻いているだけです。大人は単なる暴力装置でしかない。

何もかも全てを暴力になぞらえるのはナンセンスではありますが、しかし、僕は暴力を振りかざすような社会人には、人間には決してなりたくない。