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趣味や特技、人間関係

互いを尊重し合うことで人間関係は育まれるという。

私に卑屈さがあるからだろうか、自分は全てにおいて他人よりも劣っていると考えてしまう。そうして自分を信じることができずに、だから他人を信じることもできない。

最近思うことは、私の存在というものは他人の自己正当化を助長しているだけのものでしかないのか、と。自分を正しいとする、それを証明するために私を否定しているのではないか、と。

これは、私が自分を信じていないからこそ考えてしまうことなのかもしれない。なぜ自分を信じないのか。答えはもちろん、自分に自信がないからだ。自信をなくした理由、それは私の弱さからなのかもしれない。逆に、自信がないということが私の一番の弱さなのかも。

他人が怖い、いや、人が怖い。私が友人だと思っていても、その友人はもしかしたら私のことを友人と思っていないのかもしれない。人の嫌な部分には、私を否定し、嫌い、そうした面ばかりが見えてきてしまう。結果、自己嫌悪に陥り殻に閉じこもる。

ここまでの大学生活を振り返り、私はもうダメなのだろうな、と本気で思う。それは高校時代から、いや気付いていなかっただけでもしかすると中学・小学の頃から、私はダメだったのかもしれない。

自分の過去を思い出して、思い出された私の過去はもしかすると記憶の捏造なのかもしれない。そう考えることが多くなってくると、自分の記憶までもが信じれなくなってくる。高校時代にバンドをやっていたことも、部活でそれなりに良い成績を残したのも、希望した高校に入学したのも、生まれてきたことも・・・全部幻なのかもしれない、そう考える。

歴史上、当時の支配者らは自分たちの都合の良いように歴史を改編し後世に伝えていった。日本でも天皇らにより「日本書紀」や「古事記」のようなものが現在に伝えられてきている。それらと同じように私の脳内でも嫌な記憶は消されて変えられているのではないのか。そうした考えは、自分を信じることを辞めさせる。

そうはいっても、結局は現実逃避ということなのかもしれない。自分を信じないことが現実逃避になる、つまり、現実逃避は自分を信じていないからこそである。

他人から否定されているようにしか思えない自分を、そんな自分にどうやって自信を持てというのだろうか。どうやって自分を好きになればいいのだろうか。「お前が生きている価値はない」「お前は全てにおいて劣っている」などと、そうした言葉しか耳に入らなくなってしまった自分。まるで幻聴のような、しかし私の勘違い。本当に私が他人から否定されている存在でしかないとわかったとき、私は生きていけるだろうか。それが聞けなくて、黙るしかない。

他人を気にしない、それで生きていける世界があるのなら私はそこに行きたい。

私に死ぬ勇気があれば、死にたい。



ただ、サークルに入っていた頃の友人はだんだんと信じることができてたのも事実。

私は趣味が合う友人が欲しいだけなのかもしれない。思えば、少なくとも高校での私は趣味の合う人間としか付き合っていなかったと思う。現在での大学の友人とは全く趣味が合わない。私は野球にはほとんど興味がなく、サブカル的な面でも合わない。

合わない友人と付き合うことは我慢しなければならないのか。もしくは、合わない友人がいるということは当然のことなのか。

水泳をまた始めたい、と思う今日この頃。