またまた鬱日記かと思いきや、情報の正確性について考えてみた

自転車のタイヤ、パンクしてた・・・これ以上の出費はガチで勘弁。というか、朝大学行くときは普通に正常だったのに・・・いじめカコワルイ。

予備校の夏期講習代払ったら貯金がほぼゼロに。今月の光熱費とか払えるかなぁ。先月はローン滞納しちゃったし・・・ヤバすぎ。さらに例の悪魔野郎のせいで奨学金も根こそぎ持っていかれるという・・・サラ金って20歳以上だっけ?

食費に我慢していたら、結局は病気になってさらにお金が必要になるという。でもさ、お金がないのに食事できるわけないじゃん。朝はカロリーメイト2本、昼はおにぎり2個、夜は朝の残り2本。こんな食生活でも生きてる自分がいるわけで、結構なんとかなるもんです。去年の今頃にこんな生活してたら確実に病気になってたかと。やったー、レベルが上がったんだ。

なんだかんだいっても生活は充実してるなぁと感じる。お金がないから服も買えないし、食事もろくにできないし、好きなものなんて何も買えない。そんな自分でも、勉強のスイッチが入ってしまえば幸せになれるわけです。友達がいなくても、両親に裏切られていない私は幸せ者です。・・・とか書いてて、高校はもちろん中学の同窓会とかも絶対に行かないだろうなと考えて、無性に自分の過去を消したくなってきた。中学時代に嫌な思い出なんてほとんどないけれど、むしろ面白かったのに、正直今の私では同級生に合わせる顔はありませんな。成人式、行かないだろうな。





論文を書いててふと思ったこと。

「正しい」情報というものは必ずしも必要であるとは限らないのかもしれません。つまり、「間違った」情報が自分のなかにあろうと問題はないということです。情報の正確性が重要なのではなく、その与えられた情報から様々なことを読み取り、自分で考え、しっかりとした意見を持つことなのです。

今までの私は、与えられる多くの情報の中から「正しい」情報を判断することが必要だと考えていました。しかし、それにはやはり限界があり、人間には不可能なことであるとようやく気付きました。そもそも、情報が「正しい」かどうかなんてのは自分一人ではわかるわけもなく、ましてや大人数で議論したとしても答えが出るわけでもないのです。だったら、「正しさ」を求めるのは間違いではないのか、と考えたわけです。

おそらく、与えられた情報を鵜呑みにすることに異常なほどの否定意見を持ち出したかっただけなのでしょうね。どうしてこんな幼稚な考えをするのでしょうか、私は。坊やだからですね、わかります。